なぜ難関大学と呼ばれる大学を目指すのか

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たまには私の個人的な考え方を書いてみようかな。この時期テレビCMでは東京大学合格やら、確実に苦手な科目を伸ばすやら塾や教材のCMを結構放送していますよね。私が高校を卒業したのが1999年だから今から17年前ですが今も昔も同じような広告をしていましたよ。高校時代は何も考えていなかったが、今思うとなぜ難関大学に挑戦しているのかと思う。難関大学に合格することが目的になっていないだろうか?先月夕方の番組で難関中学受験の番組を放送していた。筑波大学附属ナンチャラ中学合格だとか、灘中学合格、開成中学合格。などなど。受験生は鉢巻をして一生懸命受験勉強をしていた。私はその番組を見て素直な感想としてかわしそうだなと思ってしまった。人間目的を持って生きるのは非常にいいことだと思う。でもとりあえず難関中学に合格するために勉強して合格し達成感を得て、その後も高校、大学とそのリズムで続けるのはいかがなものなのだろう。早い段階で人生の目的を見つけて、その目的のためにどうしても〇〇大学の〇〇学科で勉強したいから受験勉強をするという目的を持って取り組むのであれば理解できるが、ただ単に有名な大学に合格することを目的としているのはおかしいと思う。そもそも大学とは専門の学科を勉強するところではないか。一概には言えないが多くの高校も有名大学合格者数を競い合っているような気がする。それにどのような意味があるのであろうか。日本の教育は実にくだらないと思う。日本の教育概要を作っているのも某有名大学卒業のエリート官僚さんたちが自分たちの生きてきた道を肯定するために未だに変更できないためかもしれない。私の時代は中学校からだったが、最低6年間英語の勉強をして、英語を話せないのが分かりやすい点だ。英語を例に例えると、なぜ私たちは英語の勉強をしているのか?今の教育は受験のために重点を置きすぎてないだろうか。本来英語の勉強は様々な国の人とコミュニケーションをとるために勉強しなくてはならないのではないだろうか。これ以上は過激な発言となるため控えておこう。私は願う。学校の先生は生徒たちに「とりあえず」というような言葉や行動を教えないで欲しい。例えば、どんなに平均点が高くて有名大学に受かる可能性のある生徒でも、その生徒がもし陶芸家になりたいと言ったら「あなたはすぐに人間国宝の〇〇さんのところに手紙を書きなさい」と言ってくれるぐらいの先生がいたらいいのにな。話は支離滅裂だが私の考えを少しだけ書いてみました。もしこの文章を読んで不快な思いをした方がいらしたら申し訳ないと思います。

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