クシナガラからネパール領のルンビニに向かいます。

朝食はホテルでビュッフェ形式 こんな感じで選択 朝食後少し時間があったので外に出てみました。 子供達が遊んでました。髪の毛のお手入れをしている親子?もいました。 ホテルの外観はこんな感じです。 歩いて大涅槃寺に向かいます。道中の景色 なんかこの看板面白くないですか? 4人乗りはは当たり前です。私インドで最高6人乗ってるの見ました。 ホテルから15分ほど歩いて大涅槃寺に到着。 大涅槃寺の堂内には、19世紀アレキサンダーカニンガムが近くのヒラニヤヴァティー河の河床から発掘した、全長6,1メートルの涅槃像が安置されています。この涅槃像は5世紀グプタ王朝期の作品で、この時代は赤砂岩に仏像を刻んでいたため、もともとは赤色を呈していましたが、仏滅2,500年の大祭の時、ビルマ人仏教徒により金箔が施され現在の色となりました。 涅槃を直感されたお釈迦様は、ラジギール(王舎城)を後にして、最後の旅に出発されました。ナーランダ・パータリプトラ(パトナ)を経由しガンジス河を渡り、リッチャビ族が治めるバイシャリに到達した時、遊女アムラパーリと出会い、彼女から食事のもてなしをうけます。直後にリッチャビ族の貴族達もお釈迦様への食事の接待を申し出ましたが、先に申し出があったアムラパーリのもてなしを受け、供物の価値は施主の身分・地位に関係がない事をお説きになられました。この食事の後、お釈迦様は激しい苦しみに襲われ、3か月後に涅槃に入られる事を、悪魔ラーマと約束しました。その後も北への旅は続けられ、クシナガラ郊外のパーパという村に到着し、一行はマンゴの木の下で休息をとりました。その時このマンゴの木の持ち主チュンダという鍛冶屋が、お釈迦様一行に料理の供養を申し出ました。この料理についてはキノコであったという説と、豚肉であったという説があります。この供養の後、お釈迦様は再び激しい苦しみに見舞われました。お釈迦様はその時、涅槃はチュンダの責任ではない事、成道の前の供養(スジャータによるミルク粥の供養)と涅槃の前の供養には特別な意味がある事、をお説きになられました。お釈迦様は激しい苦痛の中、一刻も早くクシナガラに到着する事を望み、残り20キロの道を急ぎました。 いよいよクシナガラに到着されるとお釈迦様は、アーナンダに「2本の沙羅の樹の間に、頭を北にして床を敷いてほしい。私はつかれた。横になりたい」とお伝えになられました。そして大涅槃へと入られたのでした。 お釈迦様の涅槃の時、沙羅の樹に時ならぬ花が咲き、花弁がお釈迦様の上に舞ったと伝えられます。沙羅の花は例年3月中旬に咲くので、北伝仏教の大涅槃の日2月15日からすると、1か月の早咲きという事になります。「源氏物語」の『祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす』との一節から、沙羅双樹という種類の樹があるとの誤解がありますが、沙羅双樹とは2本の沙羅の木を意味します。また、「頭を北にして」と求められたのは、クシナガラの位置から北の方向に故郷ルンビニがあったためで、父・母に足を向ける事はできないとの意味が込められていました。これが北枕の習慣の始まりだといわれます。 謝罪するチュンダ最後の弟子スバトラ 足元の下に悲しみに溢れるアーナンダ みんなで理趣経一巻お勤めです。 お経を終えた後、係員の方が柵の内側に入れさせてくれました。 大涅槃寺正面にはお釈迦様の時代のものではありませんが、沙羅の大木が繁ります。 昔のお寺の跡 みんなで記念撮影。 その後、大涅槃寺から歩いて3分位の所にあるお釈迦様が最後に説法をした地へ移動。移動中にいたインドの子。歌を歌っていました。 入り口です。 お釈迦様は最後に「一切のものごとは滅びる。限りある時間を大切にして、修行に励め。法をよりどころにせよ」と述べられて息をひきとられました。 精舎の中には11世紀パーラ王朝時代の降魔成道像が安置されています。 その後釈尊最後の説法の地から荼毘塚(ラマバル・ストゥーパー)へバスで移動。約3分ほど 入り口で歌を歌っている人が居ました。 お釈迦様入滅後、クシナガラを治めるマルラ国では7日間礼拝が行われ、人々は花や供物を持ってやってきました。やがて、お釈迦様の遺体を荼毘に付そうとしますが、不思議な事に薪に火をつける事ができません。人々はお釈迦様の弟子カーシャパが、そこに居ない事に気づきます。 カーシャパはお釈迦様の弟子になるまでは、火を崇拝する有力なバラモンで、大勢の弟子を従え、常にお釈迦様とは一線を画していました。ある時お釈迦様が、神通力で大雨を降らせ、尼蓮禅河を氾濫させました。お釈迦様がその河に入り横切ろうとします。その姿を見たカーシャパの弟子は、お釈迦様が溺れたと思い、カーシャパに報告しました。カーシャパは船を出して確かめにいくと、お釈迦様は濡れる事なく、河の底の土を踏みながら河を横切っていました。やがてカーシャパもお釈迦様の弟子となります。奇跡のお告げにより、お釈迦様の涅槃を知ったカーシャパは駆けつけ、カーシャパの到着と同時に薪に火はつきました。  かくして火葬は無事に終わりましたが、火葬の結果残った舎利を、クシナガラのマルラ族は城内の精舎に納め、他国からの舎利分配の要求に応じようとはしませんでした。この事にお釈迦様と縁のあった諸国は怒り、戦争が起こりかけましたが、ドローナというバラモンがお釈迦様の非暴力の教えに基づき、8国で平等に分配するよう仲裁を行い、舎利は8国に分けられ持ち帰られました。このお釈迦様火葬の場所が荼毘塚(ランバルストゥーパー)です。 日本から持ってきたお線香をお供えしました。 みんなで般若心経と舎利禮をお唱えしました。 記念撮影 荼毘塚の後の予定は昼食なんですが、まだ時間があったのでミャンマー寺院(ビルマ寺院)まで歩いて行ってみる事にしました。途中かわいい光景を発見。 インドで初めて飼い犬発見しました。 ミャンマー寺院(ビルマ寺院)です。 キンキラキンです ホテルに戻る途中の写真。ホテルまでは約15分 ピーナッツです。日本のピーナッツより粒が小粒です。 兄弟かな ホテルの前で手を合わして阿弥陀ポーってリズムに合わせて歌われちゃいました。 昼食はこんな感じ こんな感じで選択 バスでルンビニ向かいます。途中なんか賑やかな集まりがありました。 集まりの理由は、豚の取引でした。煙が出てるのは豚の丸焼きを作ってました。本来インドの人は豚肉を食べないはずなんですが、ガイドさんいわく、ハリジャンの人は食べると言ってました。 途中インドの大地でトイレ休憩。 綺麗な花が咲いてました。 煙が出ているのはサトウ工場です。 これはレンガ工場 チーク材の森です。猿がいました 途中踏切に引っかかったのでバスを降りて写真撮りました。 ここは片道2車線ではありませんが、少しでも早く行きたい車が右側に列びます。反対側もこんな感じで、遮断機が開いたらどうなるかはわかりますよね。インドは一言で表現してと言われたら私は「めちゃくちゃ」と言いますね 列車が通り過ぎました。 今にも崩れ落ちそうな屋根。頭上注意です。 ごっついマネキン 自転車屋 八百屋 また踏切にひっかかっちゃいました。 仙人みたいでしょ…

ベナレスからクシナガラへ向かいます。

早朝、ベナレスにあるガンジス川のヒンドゥー教徒による沐浴風景を見に行きました。 途中までバスで移動し、後は歩きで移動です。だいたい10分位歩きました。ちなみに私の隣にいるご婦人はミルク代を求める方です。 お供え用のお花が売ってました。 ベナレスの町の雰囲気はこんな感じ。ホコリが凄いのでマスクを持ってくことをおすすめします。 これ何を売っていると思いますか?正解は歯ブラシです。束になっている物一束で20ルピーです。約35円ほど。田舎の方ではまだプラスチックの歯ブラシはあまり使われていません。 ガンジス川です。 花を売る少女です。1つ10ルピーです。日本円で17円。 小舟に乗ります。 船乗り場の所でも沐浴してます。 先ほどの少女が船までお花を売りに来ました。 10ルピーで購入。 出発です。 先ほどの花に火を付けて。 川に流します。 バラモンが朝のお祈りをしてました。 物売りがやってきます。 朝日が昇ってきました。 インドの朝日と夕日は本当に綺麗です。 洗濯する方です。ドビーと呼ばれています。 ドビーもこの頃洗濯機の普及で生活が大変だそうです。 沐浴する人たち 沐浴している人たちのちょっと上流で煙が出てます。これは火葬場ですよ 煙突があるのは電気式の火葬場だそうです。インド政府も環境に配慮して導入したらしいんだそうですがあまり人気が無いみたい。 ガンジス川の水をお土産に。 マニカルニカガードまで船で向かいます。 マニカルニカガードは火葬場のある船着き場です。火葬用の木が山積みになってました。ちなみに1回の火葬で使用される薪の量は300㎏。 細い道を歩いていると牛がゴミ食べてました。都市には野良牛が結構居ます。 バスまでは人力車で向かいます。 人力車の乗ってるとお母さんが赤ちゃんを抱っこしたまま走って、ミルク代下さいみたいなこと言ってきました。 10ルピー渡してもめちゃくちゃ走ってついてきます。 バスまでついてきました。 その後ホテルに戻って朝食。 こんな感じで選択。 昨日は暗くてわかりませんでしたが、部屋からはこんな感じで景色が見えました。 朝食後、サルナート遺跡群の一つ、CHAUKHANDI STUPA(チョウカンディー・ストゥパー)へ向かいました。 ここは、初転法輪のためブダガヤからやってきたお釈迦様を、五比丘が迎えたといわれています。当初、五比丘達はお釈迦様を苦行を捨てた脱落者だと考え、適当にあしらうつもりでいました。しかし、やってきたお釈迦様のあまりに光り輝く姿に、自然に初転法輪を受け入れたといわれます。このストゥーパーは4〜5世紀のグプタ王朝期に建造されました。ストゥーパー上部の八角形の建物は、1588年にムガール帝国3代目のアクバルによって建てられた見張り台です。 どこかの団体が説法してました。 チョウカンディー・ストゥパーを見学した後、サルナート博物館へ行きました。ここは写真撮影禁止だったので何も撮っていません。その後ダルマラージカ・ストゥーパーに行きました。 このストゥーパは紀元前3世紀にアショカ王によって造営されました。アショカ王はお釈迦様の入滅後8つに分けられ埋葬された舎利のうち7カ所を発掘し、8万4000カ所に再埋葬したと伝えられています。このストゥーパーはそのうちの一つです。ダルマラージカ・ストゥーパーは、基礎部分が残るのみとなっています。これは18世紀ベナレスの王ジャガット・シンが市場をつくるため、石材とレンガをこのストゥーパーから調達したためです。その際発見された舎利容器に入れられた人骨はヒンドゥー教の習慣によってガンジス川に流されたそうです。もったいない!!でも仕方が無い! ダルマラージカ・ストゥーパーからダメークストゥーパがよく見えます。 この敷地内にもアショカピラーがあります。 サルナートのアショカ王柱の柱頭部には、柱頭部4頭獅子像と呼ばれる、インドを象徴する彫刻が載せられていました。この作品はインドの国宝の中でも最も重要な物でインド政府の国章ともなっています。遺跡エリアに残る柱部分は3つに折れ、プラフミー文字で『教団の中で戒律を守らなかった比丘は、教団から追放し還俗させる。』など出家者の戒律について刻まれています。 ちなみにこれがインドのお札のです。 すべてのお札に4頭獅子像が印刷してあります。 その後、アショカピラーのすぐそばにあるムラガンダクーティ寺院(根本香堂)です。 古代の仏教寺院ムラガンダクーティ寺院は建造物が崩れ落ち、その基礎の部分が残るのみとなっています。この寺院は、この地で初転法輪が行われた事を記念して、グプタ王朝期(4世紀)に建立されました。寺院の基礎部分は一辺18,29メートルの四角形を呈し、その分厚い壁の構造から60メートル相当の高さを有していたと考えられます。事実、玄奘三蔵の「大唐西域記」に高さ百尺余り(今の200尺にあたり=60メートル)の精舎が空高く聳えていた事が記録されています。 その後、ムラガンダクーティ寺院のすぐ目の前にあるパンチャヤタンに行きました。 ここは初転法輪のためブダガヤからやってきたお釈迦様とどう向き合うか、五比丘が相談したところだと言われています。このパンチャヤタンの形が、卍の字形のルーツになったとの説もあります。 インドの中学生か高校生かわかりませんが、勉強に来てました。 その後、パンチャヤタンから歩いて3分ほどの所にあるダメーク・ストゥーパーへ行きました。高さ43,6m・底辺直径36,6mを有する、サルナート最大の建造物です。建立されたのはムラガンダクーティ寺院と同じグプタ王朝期で、この時代は、ブダガヤの大菩提寺などとともに、高さの高い寺院や仏塔を建築するのが流行しました。このストゥーパーは何回かの拡張を受けていて、下部には一番新しい時代の華麗な蓮華唐草模様と幾何学模様の石製装飾パネルが残ります。上部は崩壊しており、下部に残る石製装飾パネルが貼られる以前に築かれた、古い時代のストゥーパーの表面が露出した形になっています。 みんなで記念撮影 なんとなく絵になります。 その後、ダメークストゥーパーからバスで3分位の所にあるムラガンダクーティ寺院に行きました。 私たちが行った時間がちょうどお昼頃でお寺が閉まってました。…

スリランカの大統領にやられました。ブダガヤからベナレス

今日の朝食は宿泊しているホテルで。 朝食会場はこんな感じ ビュッフェスタイルです。 こんな感じで選択 デザートにバナナ食べました 朝食後ホテルの外を出てみるとなんか飾り付けしてました。聞くと今日スリランカの大統領がブダガヤにきてこのホテルにも来るらしい。やな予感が・・・ 昨日は暗くてわかりませんでしたがこんな外見のホテルです。 小型車に乗り換えて前正覚山に向かいます。 車を降りて前正覚山にある留影窟に向かいます。 20分ほど歩いて留影窟に到着 留影窟とは悟りを得るため、シャカ族の王子の地位を捨てて出家したシッダルタ王子は、当時のバラモン教修行者が行ったのと同じ厳しい修行を遂行しました。その修行は樹下石上を住居とし、食物は施しによってのみ得、衣装は人々が捨てた布を縫い合わせた糞帰衣をまとうものでした。さらに断食を行い、悟りを求める苦行は5年間続きました。この修行が行われたのが前正覚山中腹にあろ留影窟です。 現在の留影窟はチベット寺院となっていて、お悟りの前のシダルタ王子が断食を行った洞窟には、ガンダーラ芸術の最高傑作といわれる“苦行する釈迦像”のレオウリカが置かれています。その姿は全身に骨格と血管が浮きだし、目や腹部はすさまじくくぼみ、その苦行がいかに激しいものであったかがわかります。 やがてシダルタ王子は苦行のための苦行では成道に到達できない事を悟ります。ついに苦行を捨てて、スジャータのミルク粥の供養を受け、前正覚山の頂上に上がられました。その時大地が震動し『この山は正覚成就の場所ではありません。もしここで成道のための瞑想に入られれば、大地は震動し山は傾くでしょう』と山神のお告げがありました。シッダルタ王子は再び山の中腹で成道のための瞑想に入ろうとすると、大地が再び震動し『ここも正覚成就の場所ではありません。この地より遠くない所に菩提樹が繁り、その下に金剛宝座があります。過去の仏様は皆その座において成道を成就しました。願わくばそこにお出まし下さい。』と龍神のお告げがありました。かくしてお釈迦様は菩提樹の樹下、金剛宝座の席上で成道の境地に達せられました。 留影窟の中はローソクの明かりと入り口から入ってくる光のみであまり明るくありません。般若心経をお唱えしました。 留影窟前で記念撮影。 お寺の雰囲気はこんな感じ。 お寺から見る景色はこんな感じ お寺の入り口の所に2店舗ほどお店があます。 足の悪い方でも簡単にお寺まで来られますので心配なしです。価格は知りませんがそれほど高くないと思います。 来た道を戻ります。子供が大勢いますよ。 その後スジャータの村(セーナ村)へ移動 ほぼ青空の学校があります。 スギャータはバラモンの娘で、男子に恵まれるよう毎日ガジュマルの木に願いをかけていました。ある時いつものようにガジュマルの樹下に行ったところ、1人の修行者が瞑想を行っていました。スギャータはこの修行者は樹神の化身だと思い、ミルク粥の供養を行いました。この修行者こそお悟り前のお釈迦様で、これにより活力を得て菩提樹の樹下にてお悟りをひらかれました。 スギャータの村は大菩提寺の東約3キロに位置します。途中悟り前にお釈迦様が沐浴を行った尼蓮禅河に架かる橋を渡ります。この橋が完成したのは1997年のことで、それまでは乾季で水の涸れた河を徒歩で渡るか、農業用トラクターをチャーターしてスジャータの村を訪問してたそうです。スギャータの村は最近になってNGO団体が学校を寄付するなどの活動がおこなわれるようになりましたが、相変わらず素朴な生活が営まれている、典型的なインドの農村です。 ガジュマルの樹下にスギャータが施しを行ってる像があります。 子供の笑顔には癒やされますね。 先ほどの像の裏にもう一つ像があるんですが、こちらの像はお釈迦様がちょっと苦行している最中とは思えないほどポッチャリしています。 さっきの子が裏周りしてまた笑顔を見せてくれました。 先ほどの学校の前にいたおじいちゃん達 歩いてスギャータの村にあるストゥーパに向かいます。 牛の糞を使った燃料が道路で作られていました。臭いはあまり感じません。 小麦畑です 子供がずっと付いてきます。10ルピー下さいと連呼です。 だいたい子供が付いてくる人は決まっています。 10分ほど歩くとスギャータの村にあるストゥーパに到着。 このストゥーパは、1973〜74年と2001〜06年の2回発掘調査が行われ、2重のテラスをもつ円形のストゥーパの全容が明らかになりました。建立されたのは8〜9世紀に比較的新しい時代で、グプタ王朝期からパーラ王朝期への過渡期の建築様式を示しています。このストゥーパはこの地でスギャータによるお釈迦様へのミルク粥供養が行われた事を記念して建立されました。 ワンちゃんがのんびりストゥーパで休んでました。 ストゥーパの周りはこんな感じです。 般若心経をお唱えしました。 とてものどかな所で私は大好きです。 先ほどのスギャータのお寺から付いてきた子と写真撮りました。かわいいでしょ。 その後車で大菩提寺に向かい、途中から7分ほど歩きました。スリランカの大統領が来るらしく大菩提寺のメイン通りからではなく裏口から大菩提寺を目指します。 大菩提寺に向かう途中の風景。 八百屋さん 床屋さん なんかセクシーな感じのヤギ 大菩提寺の前まで付いたら問題発生。スリランカの大統領が大菩提寺にお参りに来るらしくお寺には入れない。やられました。 しょうが無いので大菩提寺のお参りは後回しし、咲樹にホテルに戻って早めの昼食をとることにしました。途中スリランカの大統領の団体様とすれ違いました。車両30台以上あったんじゃないかな。 お昼はこんな感じ 昼食後、大菩提寺が入れるまでボロボロのタクシーに乗ってブダガヤにあるお寺を見に行くことにしました。 道で寝ている人発見。 まずは私も知らなかったんですが、日本にある大乗教という宗教団体が運営している施設に行ってみました。 http://www.daijokyo.or.jp  その後歩いて3分ほどの所にある日本寺へ向かいました。途中豚を発見 今に時期は大丈夫かもしれないですが、夏場は裸足では厳しいだろうな…

ラジギールに向かいます。最終目的地はブダガヤです。

朝食はホテルで。インドに着いてから最初のカレーです。 ビュッフェ形式。 こんな感じで選択。 オムレツを作って貰いました。 チェックアウトの際、昨日もらった花の首飾りをハートにしてチップ置いてきました。 昨日遅くまでやってた結婚式の会場が朝にはほとんど片付いていました。 空港に到着。 ニューデリー空港の国内線ターミナルです。 パトナに向かいます。 搭乗口近くですべての手荷物に付いているセキュリティーチェック済みのタグが付いているかチェックされます。運が悪いと手荷物検査をもう一回されますよ。 ちなみにセキュリティーチックのタグはこんな物です。 飛行機に乗ります。 機種はエアバス319 こんな感じで飛行中 機内サービスが始まりました。 ベジタリアンフードしかありません。インドはベジタリアンの方には良いところです。 カレーが入っているパンでした。美味しかったですよ。 飛行機は順調に飛行をつづけ パトナの空港に到着です。 パトナからラジギールに向かうバスの中から見えた中々日本では見えない光景 インドではまだまだものような生活をしてる方が大勢います 余計な物がほとんど付いてないトラック? まだまだ乗れそうです。 何かのお祭りの時に使われるそうです。川に流しちゃうそうですよ。 インドの子は目が合ったりすると手を振ってくれる子が多いです。元気をもらえます。 酔っ払いです。 レンガ工場 壁に貼ってあるのは燃料です。牛の糞に藁を混ぜて乾燥すると燃料が出来るんです。料理の際使われます。 レンガの整形工場。後ろに見える川はガンジス川です。 牛の市場。一番人気があるのは水牛のメスです。性格もおとなしく乳が採れるからだそうです。 溝にはまったトラクター。インドでは意外とこんな光景が見られます。 インドの旅客電車。 過重労働かな? 線路で井戸端会議でしょうか 菜の花畑。インドでは油が多用されるのであちこちで菜の花畑が見られます 藁を保管してあります。細かくして牛の餌に使われます。 養蜂箱。菜の花がたくさん咲いてるから蜜がたくさん採れるんでしょうね。 八百屋さん ナーランダ大学跡に到着。到着したのが夕方の4時半頃。ギリギリ到着です。 ナーランダ大学跡の門の前にいたインドの方。 小さい子をだっこして一所懸命です。 おばあさん ナーランダ大学跡には綺麗な花が咲いています。結構インドの人も来てました。 日没まであまり時間がありません。でも良い風景 どこかの仏教団がマイク使って説法してました。 ここは世界最古の仏教大学です。7世紀中国からインドに旅した玄奘三蔵 http://ja.wikipedia.org/wiki/玄奘三蔵 の目的地はナーランダ大学でした。国禁を犯し唐を出発したのが629年で、途中あちこち立ち寄りながら旅を行い、ナーランダ大学で勉強を開始したのが636年だったそうです。ナーランダ大学では5年間滞在し、最終的には副学長を務めることとなります。玄奘三蔵が留学していた時の学長はシーラバトラで、彼はある時「中国から1人の求道僧がやってくる。その求道僧にはきっちりと教えなくてはならない。」というお告げを天人から受ける夢を見ました。この事を玄奘三蔵に告げるとこの夢を見た年と玄奘三蔵が長安を出発した年が同じ年であった事がわかりました。お釈迦様の時代、500人の商人がアムラ長者から購入したナーランダの土地に精舎を建設しお釈迦様に寄進しました。この精舎ではその後も仏教研究が行われ、これを5世紀のグプタ王朝クマラ・グプタ1世が本格的な総合大学に発展させました。この時代学生数は1万人余りで、教授の数だけでも2千人を数えたそうです。学部は仏教学、ヴェダー学、医学、冶金学、数学、音楽学など合計12あったそうです。その後12世紀までナーランダ大学は南アジアの最高学府の地位を保ち、様々な学問が行われたそうです。しかし12世紀末にビハールに侵略してきたゴール王朝のバハティヤール・ハルジーのイスラム部隊による焼き討ちにあい、1500年の歴史に幕を下ろします。焼き討ちに遭った際大学の蔵書が燃え尽きるまで6ヶ月かかったといいます。イスラム教・・・・・・・・←心の叫び 遺跡に残るナーランダ大学は、僧院の遺構とチャイティア(礼拝堂)の遺構に大別できます。僧院は四角形の建物の中央に広間があり、これを取り囲むように5畳くらいの広さの小部屋が1辺に10部屋程ならびます。中央の広間で大学の講義が行われ、これを取り囲む小部屋で学生達が日常生活を送っていたそうです。チャイティアは礼拝のための施設で遺跡内に数カ所残ります。特に第三号寺院はひときわ高く印象的です。チャイティアには仏様をおく窪みがありますが、イスラム教徒と破壊により、ほとんどの仏像は紛失しています。 僧院は数百年に渡り古い時代の物に新しい時代の物が建設されてきました。発掘調査により深く掘り下げられている箇所も多くあり遺跡内には大きな段差があります。 その後竹林精舎に移動。 入園価格表です。 竹林精舎の池です。ここは世界最古の仏教寺院です。今から2500年の昔、古代インド16大国の内の1つマガダ国はラジギール(王舎城)に都を置き、ビンビサーラ王により治められました。あるときビンビサーラ王は悟りを開く前のお釈迦様とラジギールで会います。『皆あの者を見よ。美しく堂々としており、歩き方も申し分ない。いやしからぬ思想の持ち主にちがいない。』と言われ、使いを出し居場所を確認させました。使いから『大王様、あの修行者は山中の洞窟で虎のように座っておりました。』と報告を受け、その洞窟に出かけ『あなたは若くして前途がある。この国の軍事指揮官になれば地位と財産をあげよう』と申し出たそうです。これに対してお釈迦様は『私はシャカ族の王だ。どうしてそのような物が必要であろうか』と述べられ修行のために立ち去られました。その時ビンビサーラ王は悟りを開かれた暁には再び王舎城を訪ねられること、そしてお釈迦様に仕えること、お釈迦様の説法を授かること、そしてその内容を理解できること、の4つを念願されました。 やがて月日が過ぎ、お悟りを開かれたお釈迦様は王舎城を訪問しビンビサーラ王に法を説かれました。感激した王は竹林園をお釈迦様に寄進し、そこにお釈迦様の教えに傾倒(けいとう)したカランダ長者が精舎を建立し、お釈迦様と弟子達が滞在するようになりました。これが竹林精舎で、竹林精舎は仏教史上最初の寺院という事になります。竹林精舎の位置は植民地時代のカニンガムらによる発掘調査では確認されていませんでした。これが確認されたのは、大唐西域記にしばしばこの池の畔でお釈迦様が法を説いたというカランダの池が独立後インド政府考局の調査によって発掘されたことによります。現在の竹林精舎はカランダのいけと近年復元された小さな精舎が整備された竹林の中にあります。 どこかのお坊さんが犬をなでなでしてました。絵になります。 ワンちゃん今までなでなでされたこと無かったのかうれしくなっちゃってお坊さんにしつこく付きまとっていました。…

インド行ってきます。

今日からインドの六大仏跡地に行ってきます。羽田空港に朝8時半に集合。 本当は成田空港から直行便でインドに行く予定だったんですが、問題のボーイング787の影響で関空から香港経由でインドに向かいます。 9時45分発JAL177便で関空に向かいます。 機種はボーイング737−800です。 機内にこんな案内がありました。 ドリンクはスカイタイムとアヤタカを注文。 関空に到着。エアーインディアのカウンターでチェックイン。 3番搭乗口から搭乗予定です。 エアーインディアに乗ります。 機種はボーイング777-200です。 おつまみにいただいたピーナッツ。ビール注文したらもう一本飲むか聞かれて、2本まとめてもらっちゃいました。 機内食はカレーを選択。 和食はこんな感じです。 香港に到着しました。 インドに向けて作業員の方が大忙しで動いてました。 搭乗券の半券のチェックがあります。 手荷物が誰の物かチェックを受け、手荷物にシールが貼られます。 2時間ほど香港にとまってニューデリーに向かいます。 香港からニューデリーまではこんな感じで飛行するみたいですよ。 また2本ずつくれました。 機内食はカレーです。もう一種類中華があるみたいですが売り切れてました。 約6時間でニューデリーに到着。関空をでてからすでに12時間が経ってます。 イミグレーションのオブジェ。インドらしくないですか インドの空港内のトイレ。わかりやすいでしょ。 すべてのトイレのデザインが違うんですよ。 荷物を受け取ります。 バスでホテルに向かいます。 今日宿泊するホテルで結婚式が行われてました。インドの結婚式一言で言うと派手です。 今日宿泊するホテルはAIRPORT RESIDENCYです ホテル廊下 私のお部屋は1125室 なかなか綺麗なお部屋でしたが、シャワーの勢いが悪すぎでした。

宝蔵院梅開花宣言します!

今日気がついたんですが宝蔵院の本堂前にある梅が咲き始めました。梅の花の香り私は大好きです。 かわいらしい梅の花が咲いてるでしょ。 まだ蕾ばっかしですけど鼻を近づけると良い香りがします。