今日は毎年宝蔵院で行われてる名取式。普段の法事とはちょっと雰囲気が違う本堂です。 全国各地からお弟子さんがいらっしゃいました。
被害を受けた屋根の修理です。
成人式の日の大雪で宝蔵院のカーポートに本堂から落ちて来た雪が直撃して壊れたので今日修理が行われました。 壊れた屋根 二カ所割れたんですが全部取り替えです。 職人さんがサイズに合わせて加工して取り付けです。
日本に戻ってきました。最初に食べたいものは・・・・
成田到着です。 成田まで迎えに来てくれました。荷物が多かったので助かりました。その後そのまま娘達を幼稚園に送っていきました。 日本について最初に食べたかったのは・・・・・ラーメンです。昼食を食べに「めんめん亭」へ http://gotti-k5.seesaa.net/article/303240531.html 私と斉藤さんが頼んだのが魚介醤油特製めんめん(990円) チャーハン小(450円)も注文 美味しそうに食べてるでしょ
デリー観光してから日本に戻ります。
朝食は昨晩と同じくホテルで 本来の営業時間より早く開けてもらった為、種類は少ないです。マサラオムレツを作ってもらってます。 朝食はこんな感じです。このマサラオムレツ私の人生の中で2番目に美味しいオムレツでした。ちなみに一番美味しかったのは神戸オークラホテルのオムレツです。 マサラティーは欠かせません 昨日は暗くて見えませんでしたが、お部屋の外はこんな感じ ホテルの外見 バスで空港に向かいます。 朝日が昇ってきました。 空港に到着 バスの運転手さんとはここでお別れです。 ラクノーの空港です http://en.wikipedia.org/wiki/Chaudhary_Charan_Singh_Airport 空港警備員さん 荷物検査。段ボール箱に瓶類が入ってると、スーツケースに入れるよう言われます。 AI-412便に乗ります。 機種はエアバス321 機内サービス デリーの空港に到着 デリーの空港のトイレ デリー市内は大渋滞です インド門 http://ja.wikipedia.org/wiki/インド門 人力車に乗り換え市内観光 赤い城(世界遺産) http://ja.wikipedia.org/wiki/赤い城 また人力車に乗ってイスラム寺院に向かいます。 イスラム寺院に到着 カメラの持ちこみ料300ルピー。そこまでして写真撮りたくないのでカメラを持ち込みませんでした イスラム寺院の近くにあった魚や その後インドのマクドナルドで昼食 店内は結構混んでました。人気があるんですね こんなセットがありました。 インドにしかないマックも多いので、ついつい頼み過ぎちゃいました デザートにマックのソフトクリームを頼みました。 一口食べて外に出たらおばあちゃん?がソフトクリーム下さいというのであげました。 美味しそうに食べてるでしょ 靴磨きの少年です。 バスで巨大マーケットに行きました。マーケット途中にあった青空床屋 マーケット到着 荷物が増えたのでカバンを購入 デリーの空港に戻りました。 搭乗します。 機種はボーイング777-200 34000フィート(10400メートル)で飛行中 機内は結構混んでました。私の隣の方もエアーインディアからの変更だそうです。 斉藤さんが選択した夕飯 私の選択したベジタリアンフード この辺を飛行してます。 大分明るくなってきました。 機内でおにぎりもらっちゃいました。食事出されるよりこの方が好きな時に食べられるから良いですよね もう少しで成田着です。
祇園精舎からラクノーに向かいます。
部屋から見えた風景 ホテルの一階にあるレストランで朝食です。 ビュッフェ形式です。 こんな感じで選択 ホテルにはお土産屋がはいってます。仏具なども売ってます。 サリーやスカーフも売ってます。 ホテルの外見。このホテル3階建てなんですが、エレベーター無しです。 ホテルを一歩出るとゴミが・・・ 朝食後、祇園精舎(サヘト)へ。入場料は下記の通り お釈迦様は悟りと入滅の間、夏の時期を25回祇園精舎で過されました。仏教に“雨安吾”という言葉があります。これは、一定期間集団で修行する事をいいますが、もともとは、夏=インドの雨季に、お釈迦様と弟子達が祇園精舎に逗留した事に始まりました。これには、雨季になると道の上に多くの虫や小動物が出てきて、この時期にむやみに歩き回ると、こうした小動物を踏み殺す機会が多くなります。一所に留まっていれば、無用な殺生をしなくても済みます。この考え方は、当時仏教教団と対立したジャイナ教の考え方を取り入れたものでした。ジャイナ教では不殺生を重要な教義とし「青草害し小生物殺す」との申し出に対し、お釈迦様は「悪説にも一理あり」と雨安吾を行う事を決められました。 法顕が祇園精舎を訪れたのは404年で『佛国記』には98の伽藍があり、そのうちの1つは7層であったが鼠が燈明皿を蹴り、火災が起こり消失した事、などを記録しています。玄奘三蔵が祇園精舎を訪れたのは603年で『大唐西域記』にはすでに荒廃しており、煉瓦造りの寺院が1つと柱頭部に牛の彫刻を載せたアショカ王柱があった事、などを記録しています。その後インドから仏教が忘れ去られると、他の仏跡地と同様、荒廃の一途をたどりました。19世紀の後半以降、宗主国イギリス人考古学者らの発掘で遺跡の全容が明らかとなり、近年の仏跡参拝者の増加で整備が進み今日の姿となりました。 祇園精舎の遺跡は、かなりの広範囲に広がります。現存する遺跡群は、1世紀のクシャン王朝以降の時代のもで、残念ながらお釈迦様の時代のスダッタにより寄進された祇園精舎そのものは、特定されていません。遺跡入口から300メートルほど進むと菩提樹の大木があり、参拝者がこの菩提樹に礼拝をしています。この菩提樹は、このあたりには菩提樹の木が少ないと、目連が神通力で一夜のうちでブダガヤから運んできたものであると伝えられています。 菩提樹の大木からさらに進むと、ガンダクティー(香堂)があります。お釈迦様の母君マヤ夫人は、お釈迦様の誕生の1週間後に亡くなられました。悟りをひらかれたお釈迦様は、天上界の忉利天に居られるマヤ夫人に説法される事を念願されました。あるときこのガンダクティーから天上界に上がられ、3か月に及ぶ説法をマヤ夫人になされました。そして再び降りてこられたのが三道宝段の地サンカシャです。 3か月間お釈迦様が居られなくなったので、地上界は大騒ぎになり、コーサラ国のプラセナジト王はショックのあまり、病気になってしまいました。そこで、等身大のお釈迦様の像を作ったところ、王の病は治りました。伝説によると、この時に刻まれた仏像は、鳩摩羅什により中国に持ち込まれ、入宋していた東大寺の僧ちょう然(ねん)がこの像と983年に巡り合い、模刻を日本に持ち帰ったのが、京都嵯峨野の清涼寺の釈迦如来像であるといわれます。 様々な国からいらっしゃった、お坊さんや信者さんが熱心にお経をお唱えしています。 みんなで理趣経一巻お唱えしました。 みんなで記念撮影 日本から持ってきたお線香の箱を火種に、お線香をお供えしました。 第二のお寺だそうです。 ガンダクティーの裏の方向に歩くと、発掘調査が行われその後整備される事なく、放置されている遺跡群があります。これは1985~1989年に関西大学の網干善教教授http://ja.wikipedia.org/wiki/網干善教 が発掘し検出した遺構です。この発掘調査は、関西大学の100周年の事業で、仏教の遺跡をキリスト教徒・ヒンドゥー教徒以外の力で発掘しよう、という趣旨で行われました。検出されたのは、紀元前1世紀の巨大な沐浴池、数件のストゥーパー、煉瓦敷きの広場、僧院跡、グプタ王朝期の完全な形の井戸などでした。当初は『大唐西域記』に記録がある、牛の像を柱頭部に載せたアショカ王柱が発見できるかと期待されましたが、アショカ王柱の発見にはいたりませんでした。 祇園精舎にいたおばあちゃん達 その後祇園精舎からバスで3〜4分の所にあるパッキクティに向かいました。 舎衛城(マヘト)入口の近くにパッキクティと呼ばれる、不規則な形をしたストゥ-パーがあります。このストゥ-パーは1世紀頃建造が開始され、その後何度かの拡張が行われたためこういう形となりました。法顕や玄奘はこのストゥ-パーの事を、アングリマーラのストゥ-パーと紹介しています。これは次のとおりの事件が舎衛城で起きたためでした。 アングリマーラはタキシラに留学経験もある秀才で、舎衛城で師匠であるバラモンに仕えていました。彼は師匠の妻にもかわいがられ、その関係を怪しまれた事から、追放されてしまいます。行くところのないアングリマーラは、悪いバラモンに100人を殺し、切断した指を糸でつなぎネックレッスにするようそそのかされました。そして99人を殺害100人目の殺害をはかろうとします。その時そこを通りかかったのがお釈迦様でした。アングリマーラは「動くな」とお釈迦様に言いました。お釈迦様はアングリマーラに「私は止まっている。動いているのはお前だ」と一言いったところ、途端にアングリマーラはひれ伏し、刃物を捨てお釈迦様に救いを求めました。プラセナジト王は、軍隊を出してこの殺人鬼を成敗しようとしましたが、その時アングリマーラはすでにお釈迦様の弟子となっていたため、命は助けられました。遺族から石をぶつけられたり、なぐられたりしましたが、お釈迦様は、アングリマーラにただただ耐えるようにとお説きになられました。 プラセナジト王の仏教への改宗以降、ジャイナ教徒によるお釈迦様への中傷が激化し、神通力を披露するよう迫りました。お釈迦様は舎衛城でこれに応え、一度に1,000の姿になったり(千仏化現)、足元から水・頭から炎を出したり(双神変)、マンゴの種を1日で大木にしてみたり、などされました。これらを舎衛城の奇跡といいます。 パッキクティの上から見える風景 ここにも大勢の子供が集まります。 斉藤さんがキャンディーを配りました。 途中から列が乱れ大変な事に バスでジャイナ教のお寺に向かいます。 祇園精舎と舎衛城の中間に、牛頭天王を祀る祠がります。牛頭天王とは、天然痘など疫病を防ぐ、仏教以前の時代からの土着神です。645年に舎衛城出身の法道仙人は、播磨の国にその分身が持ち込み、姫路市の広峰神社に奉り、人々の治療に専念しました。その後、その名声が京都に伝わり、牛頭天王は京都祇園の八坂神社に奉られる事になりました。京都の夏の風物詩祇園祭の山鉾巡行で町を行く山車は、もともとインドの祭りで使われていたもの(ラータ)で、牛頭天王と同時に日本に伝わったものです。 その後タイ寺院に行ったんですが、時間的に閉まってました。 すごく大きなお寺です。 中に入れる時間は下記の通り 観光地ではないので写真撮影等はだめです。 ここにも子供がいました。クリケットの試合を中断して来てますよ どんどん人が集まってきます。 バスが走り出しても走って追っかけてきました。 その後祇園精舎の鐘に移動。インドの子が牛をつれてました。 祇園精舎の鐘です。 鐘は誰でもつけます 鐘の前にいた親子 その後ホテルに戻り昼食 部屋から見える風景 散らかってますけどお部屋です。 昼食もビュッフェ形式です。こんな感じで選択 水牛を使ってサトウキビを運んでます。 水牛は兄弟牛を使わないと相性が良くないそうです サトウキビは一カ所に集められ、そこから大型トラックで砂糖工場に運ばれます。 積み過ぎるとこうなります。 途中カーリー寺院を発見 カーリーは血が大好きです。 バスに乗ってて、目が合ったら手を振ってくれました。 タバコや 床屋 肉屋。鮮度抜群です。 木を伐採してました。チェーンソーでは無く、斧である程度切った後トラクターで引っ張って倒します。 サトウキビ泥棒発見!!!…
ルンビニ(ネパール)から祇園精舎(インド)に向かいます。
ネパールのの朝はものすごい霧でした。 ホテルにクジャクがいましたよ 昨日入ったお風呂(女風呂)はこんな感じ。昨日は人が居たため写真が撮れませんでした 朝食はホテルで お粥です ルンビニ園に到着 お釈迦様生誕の地ルンビニは、1997年世界遺産に指定されました。1980年頃まで荒廃し訪れる人も少なかったルンビニですが、その後遺跡公園として整備が行われ、今日の姿となりました。 マヤ堂の前でお金を払います。 霧の奥に見える建物がマヤ堂です。 マヤ堂は時代とともに、位置と建築物の形状が変化してきました。今日の形となったのは、ルンビニ中心部の遺構を覆うシェルター型の建造物を建築すべきという、ユネスコも進言によるものでした。 マヤ堂内部には、発掘調査により検出された建造物の遺構がそのままの姿で残ります。遺構はいくつかの時代に分類され、古い時代のものの上に新しい時代の建造物が建てられるというプロセスが何度か繰りかえされました。特に注目されるのは、紀元前3世紀(アショカ王の時代)と想定される地層から、マーカーストーンが検出された事です。この、マーカーストーンはお釈迦様がこの地で降誕された事を示すとされるもので、マヤ堂のほぼ中心に位置し、渡り廊下の上を進みマーカーストーンのすぐ近くまで行く事ができます。 マーカーストーンの上には、4世紀グプタ王朝期に刻まれた石製のお釈迦様降誕像が安置されます。イスラム教徒による破壊をうけ、わかりにくくはなっていますが、マヤ夫人が無憂樹の枝に右手を触れられた時、右脇腹よりお釈迦様が誕生され、これを梵天(ブラフマー神)が絹布を手にして抱き上げようとしているところの像です。ちなみに堂内は写真撮影禁止です マヤ堂の南に大きな池があります。この池でマヤ夫人がお釈迦様を産む前に沐浴をされた、あるいはお釈迦様が産湯につかったといわれます。実際にはこの池は、1933~1939年に考古学的検証にともなわずに掘られたものです。 ただ、さまざまな仏教文献にルンビニの池の事は記載されていて、5世紀この地を訪れた法顕は「佛国記」に『王妃が北方からお越しになり、水浴びをされ、身体を清められたのはここである』と残していますし、三蔵は「大唐西域記」に『釈迦族の水浴び用桶である。その水は鏡のように光輝き、清らかである。水面は色とりどりの花で覆われている』と記述しています。 アショカ王柱もあります マウリヤ王朝3代目アショカ王が即位したのは、紀元前274年頃だといわれます。これはお釈迦様の入滅(死去BC483年頃)のおよそ200年後でした。アショカ王が即位した時代には、マウリヤ王朝はベンガル湾に面したカリンガー国をのぞき、北インド一帯を支配下においていました。アショカ王はカリンガー国を征服するべく、長期に渡る戦を行い、カリンガー国を支配下におく事となりました。その際マウリヤ側にもカリンガー側にも多くの死者・負傷者がでました。その悲惨な様子をみたアショカ王は、武力による政治から、仏教の理念に基づく法による政治を目指すようになります。 その際、仏教の普及をはかるため建立されたのがアショカ王柱です。アショカ王柱は継ぎ目のない1本の柱の上部に、獅子・牛・象など、仏教にかかわりあいのある動物の彫刻が載せられました。マウリヤ国領土に30本くらい建てられたと推定されていますが、現在残るのは断片のみのものを含めて15本が知られています。 マヤ堂の西に残る石柱もアショカの1つです。玄奘三蔵の大唐西域記には、柱頭部に馬の石像があった事が記録されていますが、現在は発見されていません。この石柱にはブラフミー語で『神々に愛せられた温容ある王(アショカ王)は、即位20年後に、親しくこの地に巡幸参拝された。ここは仏陀釈迦牟尼の生誕地であるが故に、石で馬像を作り石柱を建立させた。神がここで誕生されたので、ルンビニ村は租税を免じ、生産物の八分の一のみ納めるものとされた』との碑文が残ります。 日本から持ってきたお線香をお供えしました みんなで記念撮影 どこかの団体が説法してました 靴では入れないのでウェットティシューを持ってった方がいいですよ その後ルンビニ園内にあるチベット寺院に行ってお参りをしました ルンビニ園内には猿が居ます ルンビニ園の価格表がありました バスに乗ってティラウラコットに向かいます。相変わらず凄い霧でした。 ティラウラコット到着 小さい子がお金を求めてきます。 ティラウラコットには公衆有料トイレがありますが、メチャクチャ汚いです。正直外でやった方が・・・・ 西門です 近世以降多くの仏跡地は、発掘調査によりその位置は確証されてきました。しかしシャカ族の都跡カピラヴァースト(カピラ城)については、ネパール領ティラウラコットと、インド領ピプラワの2つの説があり、確証されるにはいたっていません。これには、法顕の「仏国記」(5C)による『ルンビニの西15Kmにカピラヴァーストあり』という記述と、玄奘三蔵の「大唐西域記」(7C)による『ルンビニからサラクーパを経て23Km』という記述が、相違している事が関係しています。 ティラウラコットの遺跡へは、ルンビニから西に約20キロ進み、タウリハワーという街から進路を北にとり約5キロ進むと到着します。(所要片道約1時間)城跡の遺跡は南北500メートル・東西450メートルと広範囲に及び、ネパール政府考古局により、城の西門と東門など一部の発掘調査が行われています。 「大唐西域記」の記録に『カピラ城には高い城壁があり四方に4つの門があった』とあります。また、“四門出遊”のお話では、カピラ城に暮らすプリンス・シッダルタは、東門から外に出て老人と、南門から外に出て病人と、西門から外に出て死人と、北門から外に出て修行僧と遭遇し、出家をお決めになられた、とされています。発掘調査で検出されている東門と西門は、これらの話にも符合しており非常に臨場感を感じさせます。 ティラウラコット内には土着の神様が奉られています キャンプしてるのかな ティラウラコット内は地元の方の憩いの場なのかな 城壁跡です 東門です ミャンマーの方かな 東門の前はこんな感じ バスで国境に向かいました。 ネパール側にある酒屋でお土産用のお酒を少し買いました。 ネパールの国境 お母さんが子供の背中に出来てるアセモみたいなボツボツを見せてきてお金を下さいと言ってきたので少し渡しました。 ネパールとさよならです。 再びインドに入国 インド側に何事も無く入国。先ほどのお母さんはインド側の警備員に止められていました。 今日は昨日ほど車がいません インドの入国審査をツアーコンダクターの方がやっている間。雑貨屋にいきました インドのお菓子を買いました。味は全体的に味が濃くて、スパイシーな感じです。 川岸で火葬してました。 青空学校 その後昼食を食べに「THE ROYAL RETREAT」というホテルで昼食 http://www.trrshivpatinagar.com このホテルの庭はイギリス風で、綺麗な花が咲いていました。 しかしホテルの中はかなり不気味です。ここには泊まりたくないです。 昼食もビュッフェ形式 トマトのスープ。美味しかったです。 こんな感じで選択 デザートが配られました。温かいメチャクチャ甘いカスタードクリームがバナナにかかってました。…